地球市民のいかがわしさ


地球市民」ということがいわゆる国際派の人、市民主義、人権派の人たちによってよく言われてきました。もっともらしくて表立って反論しにくい概念であるが、どうも胡散臭いと直感的に感じてはいいました。『英語を学べばバカになる』の中で薬師院さんはこの正体を見事に明らかにしてくれています。


要するに「地球市民」とはグローバル化した世界の中で、特定の民族や国家から独立した個人的アイデンティティーを持ち自発的な行為をする市民という人たちということになるが、その実態はといえば結局アメリカの多国籍企業が活躍する世界で生きるエリートたちのことなのである。ドミニク・ヴォルトンというフランスの学者が次のようにその正体を喝破しています。


「もっとも闊達にグローバル化されているのはエリートたちの文化である。この種の文化は、世界中のエリートたちが同様の文化的嗜好を持っているがゆえにグローバルなのである。彼らがしばしば、グローバルな文化>さらには<地球市民主義>などを語る傾向があるのは、そのような代物が、小さな輪の中で経験されているからに他ならない。---<グローバルな地球市民>なるものは、同じようなメディアに接し、同じような行動様式や文化習慣を共有し、世界を旅する語句少数のエリートにしか関係のないまやかしものであり、極端に言えば<空港の地球市民主義>でしかないのである。」


こういうことなんですね。まあそういう人たちが自分でそういう生活を楽しむのは勝手にやっていただいて結構なんですが、そんなごく一部の特権階級の生活に過ぎないなんていうものを、グローバル化時代のすべての人間が目指さなければならない「進んだ生き方」だなどという傲慢きわまる主張もっともらしく行い、「頭の弱い」文科省の役人だとか、マスコミだとかがそれを妄信して、一般の人に押し付けているというところに問題があります。またそれに盲従して、小学英語などを一生懸命にやろうとする人が出てくるので、その害悪たるや大変なもんです。エリートが勝手を言ってるに過ぎないくせにさも人民の味方であるかのごとき立場で主張する、といういやらしさがあります。


「これからの日本人は、「地球・世界市民」の一員として暮らしていくために、いままでのような「消極的直線嗜好・行動様式」から脱却し、いわば国民1人1人が、自己のアイデンティティーに基づいた立場から「積極的曲線的思考・行動様式」にのっとった対話的なコミュニケーション能力を身に着けることが必要です。」と称して、小学校で「たとえば休み時間に廊下ですれ違った児童に『ハロー』と英語代刷する。教室以外にも英語を使う場を提供して上げる」ようなことをまじめに行っているのだ。はっきり言って馬鹿である。英語でハローのような日常挨拶をさせることがほんの少しでも「使える」英語力になるかといえば、はっきりと「ゼロ」である。日本がアメリカの植民地だったら、少しはこんなことも役に立つかもしれない。いや逆かもしれませんね、いくらアメリカの植民地だって、こんなこと自然に覚えるだろうから、学校でわざわざ教えるまでもないでしょう。こんなことをやって、どんな効果があるかといえば、唯一つまともな日本語の挨拶ができない子供が増える、すなわち日本の文科破壊が起こるだけ、これしか考えられませんね。もう一度言いますが、英語なんて神様語でも何でもありません。この程度の「呪文」を唱えてホントに役に立つことなんかありません。アメリカ崇拝の奴隷根性を形成するには少しは効果があるでしょうが、まともな仕事をするうえでも、また自己主張をする上でもこんな程度の英語など屁の役にも立ちません。


「英語を学ぶとバカになる」というのは間違いのないことです。こういう類の英語教育をやる限り、それ以外の結果は絶対に期待できません。皆さんそう思いませんか。そう思わない方は、ご意見ください。