Rebuck 先生のインタビュー


昨日名古屋市立大学のMark Rebuck先生がお見えになって拙著『文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ)についての感想を述べられ、非常に provoking な内容なので、いろいろ伺いたいと思って、インタビューに来たといわれました。インタビューの内容を「日本語学教育学会」JALT (The Japan Association for Language Teaching)の機関紙、The Language Teacher に掲載したいということです。


Rebuck先生が私のことで一番興味を感じていたのは、文科省の官僚と同じ大学を出ているのにその人たち、また多くの日本人、日本の学者と非常に違う考えを持つようになったのはどうしてなのか?ということのようでした。なぜ独特の考えをもてるのかということのようでした。そういわれると結構答えにくいのですが、要するに必要な英語とは何だろう、どうすればうまくなるんだろうということを、思い込みなしで、まともに考えていくと、世の常識とされているものと違ったものにならざるを得ない、ということになるのですが、と答えました。そして話していくうちに、一つは英語コンプレックスに冒されている状態がおかしい、それから脱却してものを考えていくと、自然にいまの私の考えになるような気がしてきまして、そういいました。


英語コンプレックスの原因についての議論もしました。これは基本的に明治以来進んだ外来文化を受け入れるというパターンが長く続いたことがあって、その惰性からいまだに脱却できていないことがあると思います。それに加えて、大東亜戦争の敗北があり、さらに負けただけでなく、占領軍のWar Guilt Information Programによって、徹底的に日本悪者論を叩き込まれたのが底流にあるため、何かというとコンプレックスに陥りやすいわけです。英語が簡単にできて不自由しなければ英語コンプレックスにならないで済むのかもしれませんが、そうはいきません。非常に違った構造をしている英語をものにすることは容易なことではありません。かなり努力してもなかなかうまくならないというのが95%の日本人が経験していることでしょう。本当はそんなことでコンプレックスなど持つ必要はないのですが、上述の基本要因があるものですから、コンプレックスに転化してしまうわけです。


これはコンプレックスとは必ずしもイコールのことではありませんが、同じく日本人の多くの人が体験していると見られる、「愕然体験」があります。どういうことかというと、かなり英語を一生懸命勉強し、本も読めるようになった。ところがある時、アメリカ人と話しをする機会があった。英語はかなり分かっているつもりでいたのに、相手の言うことがさっぱり聞き取れないし、自分が言おうとすることが、一語も口から出てこない!冷汗の出る恥ずかしい思いをしたという体験です。一体自分の学んだ英語は何だったのだ!そして、文法読解中心の英語教育がいけなかった、会話重視の英語をやるべきだ!と短絡的に考えてしまうわけです。余りにも多くの人が体験していて、事実会話ができないので、この短絡思考が疑われることなく広く受け入れられてしまっています。しかし、そもそも「愕然」となんかしなくてもよいのです。「会話はスポーツ」ということを知っていれば、スポーツトレーニングをしてこなかったのだから、スポーツである会話ができないのは「当然」のことにすぎないのです。大体人間の言語中枢は、理解を主につかさどる、ベルニッケ中枢と、声に出す、いわば運動的な機能をつかさどるブローカー中枢とから成り立っているのであって、この両者の統合で言語活動が行われるわけです。運動のほう、すなわちスポーツの方をトレーニングしてなかった、というそれだけのことです。だからといって、語学学習をこのスポーツのほう中心に行わなければいけないわけでは全くありません。


そのことは、本の中でも書きましたが、文法読解を身につけていると、会話ができるよりも、上達の速度がはるかに速いのです。大学の先生が実験によって確かめています。コンピュータを全面的に活用した集中プログラムで、3ヶ月の集中トレーニングを子なったところ、文法読解はできるが会話はだめという生徒は急速に上達し、TOEIC100点以上向上するのに、その逆の生徒はめぼしいアップが見られないという結果です。こんなことは事件するまでもなく、当たり前のことではないかと思うのですが、会話万能論者はよくよく反省していただきたいものです。こうしたこともインタビューのなかでとなりました。Rebuck先生も同意されていました。


小さい時からの英語学習について、英会話はスポーツというが、荒川選手は6歳のころからスケートをやっていたのであのように上達できたのと同じように、英会話も小さい時からやるほうが上達するのではないか、との質問もありました。それは荒川選手のように、「毎日3時間」近くも練習すれば英語力もつくことは間違いないでしょう。それと、週1−2時間のお遊び英語とを一緒にすることは100%別のことで、そんなものは時間の浪費以外のないものももたらさないことをよく認識すべきですと答えました。この混同が多いのですよね。


他にも随分いろいろな話をしました。書き切れないので、最後に一つ、英語の先生方に希望することは何でしょうかという質問がありました。私はこういいました。言語はコミュニケーションのためのものであることはいうまでもないことです。コミュニケーションそのものです。それなのに、コミュニカティブ英語だとか何とか、分かったような分からないような言い方で、英語教育を曖昧にしないで、英語力を向上させることに集中してほしい。語学の先生に、ボディーランゲージだとか、人間としてのコミュニケーションの方法だとかを期待なんかしていない。そういうことは他にやる人がいる。英語の先生はいかにしたら英語力を向上させることができるかに集中していただきたい。ということでした。


それから、思い出したのでもう一つ、楽しく学ぶということについてもいいました。先生がいろいろ工夫してくださるのは結構だが、英語学習のように根気の要ることは、楽しいだけで済むことではありえない。大体楽しくを余りに強調するのは子供を馬鹿にした考えだ。子供にとって英語を学んで本当に楽しく感ずるのは、ちょっと楽しい歌を歌うことなどではなく、自分の英語力が高まったことを実感する時だ。英語学習の目的はあくまで英語に上達することであって、楽しくやるとか何とかは技術的な2次的なことであるのに、まるでそれを第一に持ってくる世の風潮は全く間違っている。こんなこともいいました。


こうしたことはほとんど『文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ)に書いてありますので、興味のある方は是非お読みください。

The Language Teacherには、どのくらいどのように載るのか、楽しみです。