ナベツネは遊就館展示を自分の目で見ろ


ナベツネの「真相箱」少年からほとんど変わらない、いわば化石的な日本悪者史観の持ち主であることに驚きあきれた次第であるが、そんな無知蒙昧知的怠惰のままで、読売新聞主筆を務めるのは許しがたいことである。少しは謙虚に、歴史の真実を学びなおす気持ちになるべきである。


遊就館がおかしい」という。「あれは軍国主義礼賛lの施設で」というが日本に軍国主愚なるものが存在した、とこれまた化石思考よろしく何の疑いなくいっているのは、お粗末の限りだ。どこの国にいっても国のために闘った人たちの遺品を展示しているところでは、その健闘をたたえているのが当たり前である。これを軍国主義というんだったら世界中が軍国主義になってしまうではないか。世界中にこの例外が1つでもあったら教えてもらいたい。こんな世界の常識も知らないナベツネが自分は偉そうなつもりで、軍国主義がどうのこうの言うんだからあきれたものである。これに続いて「中を見てきた子供が、日本はこの前の戦争に勝ったんだね、というんだな」といっている。ナベツネの程度は見てきたとおりであるが、その子供とやらの知能程度は一体どうなっているんだろうか?あの展示のどこをどう見れば「前の戦争で日本は勝った」と解釈するというんだろうか。頭の程度が知れない。誤解の余地はない説明になっているはずである。何しろ展示説明の全部を英訳したのだから、間違いなくそんな馬鹿なことはないと断言できる。


そもそも、偉そうに風聞を事実であるかのように言い立てる前に、自分で展示をじっくり見たらどうなのだ。直接取材もせずに、「遊就館はよくない」「軍国主義礼賛l」だなどとほざく、ジャーナリストとは一体何者なのだ!日清・日露の戦いの記述も然りであるが、大東亜戦争の記述にしても、「史実に反した記述は1点もない」これをモットーにした記述であり、ナベツネよ、もしここが誤ているというところがあったら是非具体的に指摘してもらおうではないか!それがジャーナリストとしての最低の義務ではないか?大読売であろうとどうであろうと、いや代読売であるからこそ、事実に基かない発言、報道を偉そうにする権利など皆無であることをよくよく認識すべきである。

ナベツネの恐るべき化石思考


読売の靖国参拝に対する論調がおかしいのが気になっていた。どうも中曽根と組んでナベツネがA級合祀の靖国を問題にしているためのようだと漠然と思っていた。ところが、論座2月号の朝日新聞若宮論説主管との対談を読んで、その認識は甘いというか、とんでもない見当はずれであることを知った。


「僕は学生時代から本当に反戦を主張してきました。先の戦争で、何百万もの人々が天皇の名の下で殺された。」


何だこれは!共産主義学生運動をしていた時と全く同じ戦争観を抱き続けているということじゃないか!まるで、あの戦争は日本が勝手に引き起こした侵略戦争であるかのような、東京裁判史観そのものというよりも、戦後のNHKを使った占領軍の「これが真相だ」「真相箱」の日本徹底悪玉論のデマ宣伝を60年も経つというのに何の学習もせずに後生大事に持ち続けているこの知的怠慢者、化石男、これがナベツネノ正体だったのだ。


大体戦争は相手があって起こるものであり、5分5分でそれぞれ言い分があるというのが常識である。ところがあの大東亜戦争に至っては、マッカーサーが上院の公聴会ではっきり明言しているように、日本は自衛のために戦争に立ち上がったのであり、ローガン弁護人が言ったように、先に「経済封鎖という戦争行為」(これは戦争行為であるとケロッグ国務長官アメリカの議会で明言している)を行ったのはアメリカであり、したがって戦争を仕掛けたのはアメリカなのだ。となると5分5分どころではなく、圧倒的に日本に理のある戦争であったことは明らかである。すなわち「仕掛けられた戦争」であったのである。天皇の名の下で殺されたとは一体どういうことだ!殺したのは、アメリカ軍であり、英軍であり、シナ軍であって、天皇の名の下に殺したとは一体どういう倒錯なのだ。(アメリカについてはそうかもしれないが、中国に対しては侵略だという人は、www.sekai-shuppan.com の、発言舎の中の日支事変菅家の文章をお読みいただきたい。盧溝橋から始まり、上海事変、すべて中国側の仕掛け、拡大策謀によって起こったことである。日本は占領は下が一片の領土要求もしていない)。


戦争責任をいうなら、戦争を仕掛けたほうをこそ第一義的に問題とすべきである。仕掛けられたけんかを逃げ回って済ませられるならいいが、そうはいかないこともある。仕掛けられたが、何とかその回避をしようと東條を含む当時の指導者たちがどれだけぎりぎりの努力をしたか、少しは勉強したらどうだナベツネよ!何百冊も読めとはいわない、せめて東條の宣誓供述書だけでいいから、しっかり読んでみろといいたい。馬鹿にしてはいけない。立派な供述書だ。いまの知識のナベツネではとてもこれに反論はできないはずだ。勿論馬鹿の一つ覚えの開戦非難でもするんだろうか、そんな知的怠慢者は、有力新聞の主筆などという職を汚すのはいい加減にすべきである。


戦争回避だけが能ではない。日本はあの戦争において堂々たる終結の戦略を有していたのである。16年11月15日、大本営政府連絡会議で正式採択された「対米英蘭蒋戦争終結促進に関する腹案」がそれである。簡単に言えば、第一段階作戦(これはそのまま実現された)の後は、太平洋は防御とし、インド洋方面に独伊のアフリカ作戦ともこうして作戦を行い、イギリスに対する豪印からの物資補給を断ち、アメリカのインド洋を通じての蒋介石政権、そしてソ連への膨大な武器援助を遮断する、という第二段階作戦の実施である。こうすることによって完全に補給を断たれた蒋政権を屈服させ、イギリスも弱らせ、「アメリカをして戦争継続の意欲をなからしむ」(腹案の目標)という戦略である。蒋政権屈服とは、汪兆銘との親日連合政権の樹立であり、こうなるとアメリカは日本との戦争の大義が失われる。それに加えて、インド洋作戦が成功すると、インド義勇軍のインド上陸、英印軍反乱、そしてインド独立がたちまち起こりことも期待できる。日本はきわめて有利な環境下に、和平提案を行えるのである。少なくとも18年はじめまでにはこれが実現できたはずである。腹案には、講和仲介の国として南米諸国、スエーデン、ポルトガル法王庁なども上げていて、きわめて真っ当な内容である。ではなぜそうできなかったのか、ということになるがそれは何回も講演で説明しているが、ここ述べるには長くなりすぎる。ただいいたいのは、アメリカを屈服させるだとか言う誇大妄想などとは無縁のきわめて合理的な作戦を持っていたのだということを知ってもらいたいということだ。


ナベツネがこんなことに無知なのは当然としても、ひどいのは特攻機が片道燃料しか積んでいなかっただとか、強制自爆だとか、ひどい無知振りを平気でさらしていることだ。冗談ではない、敵が補足できず戻ったり、また途中で天候不良で戻ったり、と戻ったケースはいくらもある。最初の特攻隊を率いた関大尉の部隊も、2回不成功で引き返している。3回目にようやく目的を果たしている。強制自爆とは特攻隊員に対する侮辱である。こうした攻撃がいいかどうかの議論はできる。しかし、ナベツネのような卑小な人間ばかりだったのではないことはよくよく認識すべきである。進んで志願したものが多かったのである。というより、志願したもののプールの中から選ばれて特攻に出陣したのであって、実際は強制だというかもしれないが、間違いなく志願だったのである。最終的には志願したもの全体の約半分が、実際に出撃したのである。自分の卑しい卑小さを多くの散っていった先人に押し付けるのは失礼というより犯罪的である。心から謝罪せよ。もし人間としての一片の良心があるなら。

Rebuck 先生のインタビュー


昨日名古屋市立大学のMark Rebuck先生がお見えになって拙著『文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ)についての感想を述べられ、非常に provoking な内容なので、いろいろ伺いたいと思って、インタビューに来たといわれました。インタビューの内容を「日本語学教育学会」JALT (The Japan Association for Language Teaching)の機関紙、The Language Teacher に掲載したいということです。


Rebuck先生が私のことで一番興味を感じていたのは、文科省の官僚と同じ大学を出ているのにその人たち、また多くの日本人、日本の学者と非常に違う考えを持つようになったのはどうしてなのか?ということのようでした。なぜ独特の考えをもてるのかということのようでした。そういわれると結構答えにくいのですが、要するに必要な英語とは何だろう、どうすればうまくなるんだろうということを、思い込みなしで、まともに考えていくと、世の常識とされているものと違ったものにならざるを得ない、ということになるのですが、と答えました。そして話していくうちに、一つは英語コンプレックスに冒されている状態がおかしい、それから脱却してものを考えていくと、自然にいまの私の考えになるような気がしてきまして、そういいました。


英語コンプレックスの原因についての議論もしました。これは基本的に明治以来進んだ外来文化を受け入れるというパターンが長く続いたことがあって、その惰性からいまだに脱却できていないことがあると思います。それに加えて、大東亜戦争の敗北があり、さらに負けただけでなく、占領軍のWar Guilt Information Programによって、徹底的に日本悪者論を叩き込まれたのが底流にあるため、何かというとコンプレックスに陥りやすいわけです。英語が簡単にできて不自由しなければ英語コンプレックスにならないで済むのかもしれませんが、そうはいきません。非常に違った構造をしている英語をものにすることは容易なことではありません。かなり努力してもなかなかうまくならないというのが95%の日本人が経験していることでしょう。本当はそんなことでコンプレックスなど持つ必要はないのですが、上述の基本要因があるものですから、コンプレックスに転化してしまうわけです。


これはコンプレックスとは必ずしもイコールのことではありませんが、同じく日本人の多くの人が体験していると見られる、「愕然体験」があります。どういうことかというと、かなり英語を一生懸命勉強し、本も読めるようになった。ところがある時、アメリカ人と話しをする機会があった。英語はかなり分かっているつもりでいたのに、相手の言うことがさっぱり聞き取れないし、自分が言おうとすることが、一語も口から出てこない!冷汗の出る恥ずかしい思いをしたという体験です。一体自分の学んだ英語は何だったのだ!そして、文法読解中心の英語教育がいけなかった、会話重視の英語をやるべきだ!と短絡的に考えてしまうわけです。余りにも多くの人が体験していて、事実会話ができないので、この短絡思考が疑われることなく広く受け入れられてしまっています。しかし、そもそも「愕然」となんかしなくてもよいのです。「会話はスポーツ」ということを知っていれば、スポーツトレーニングをしてこなかったのだから、スポーツである会話ができないのは「当然」のことにすぎないのです。大体人間の言語中枢は、理解を主につかさどる、ベルニッケ中枢と、声に出す、いわば運動的な機能をつかさどるブローカー中枢とから成り立っているのであって、この両者の統合で言語活動が行われるわけです。運動のほう、すなわちスポーツの方をトレーニングしてなかった、というそれだけのことです。だからといって、語学学習をこのスポーツのほう中心に行わなければいけないわけでは全くありません。


そのことは、本の中でも書きましたが、文法読解を身につけていると、会話ができるよりも、上達の速度がはるかに速いのです。大学の先生が実験によって確かめています。コンピュータを全面的に活用した集中プログラムで、3ヶ月の集中トレーニングを子なったところ、文法読解はできるが会話はだめという生徒は急速に上達し、TOEIC100点以上向上するのに、その逆の生徒はめぼしいアップが見られないという結果です。こんなことは事件するまでもなく、当たり前のことではないかと思うのですが、会話万能論者はよくよく反省していただきたいものです。こうしたこともインタビューのなかでとなりました。Rebuck先生も同意されていました。


小さい時からの英語学習について、英会話はスポーツというが、荒川選手は6歳のころからスケートをやっていたのであのように上達できたのと同じように、英会話も小さい時からやるほうが上達するのではないか、との質問もありました。それは荒川選手のように、「毎日3時間」近くも練習すれば英語力もつくことは間違いないでしょう。それと、週1−2時間のお遊び英語とを一緒にすることは100%別のことで、そんなものは時間の浪費以外のないものももたらさないことをよく認識すべきですと答えました。この混同が多いのですよね。


他にも随分いろいろな話をしました。書き切れないので、最後に一つ、英語の先生方に希望することは何でしょうかという質問がありました。私はこういいました。言語はコミュニケーションのためのものであることはいうまでもないことです。コミュニケーションそのものです。それなのに、コミュニカティブ英語だとか何とか、分かったような分からないような言い方で、英語教育を曖昧にしないで、英語力を向上させることに集中してほしい。語学の先生に、ボディーランゲージだとか、人間としてのコミュニケーションの方法だとかを期待なんかしていない。そういうことは他にやる人がいる。英語の先生はいかにしたら英語力を向上させることができるかに集中していただきたい。ということでした。


それから、思い出したのでもう一つ、楽しく学ぶということについてもいいました。先生がいろいろ工夫してくださるのは結構だが、英語学習のように根気の要ることは、楽しいだけで済むことではありえない。大体楽しくを余りに強調するのは子供を馬鹿にした考えだ。子供にとって英語を学んで本当に楽しく感ずるのは、ちょっと楽しい歌を歌うことなどではなく、自分の英語力が高まったことを実感する時だ。英語学習の目的はあくまで英語に上達することであって、楽しくやるとか何とかは技術的な2次的なことであるのに、まるでそれを第一に持ってくる世の風潮は全く間違っている。こんなこともいいました。


こうしたことはほとんど『文科省が英語を壊す』(中公新書ラクレ)に書いてありますので、興味のある方は是非お読みください。

The Language Teacherには、どのくらいどのように載るのか、楽しみです。

地球市民のいかがわしさ


地球市民」ということがいわゆる国際派の人、市民主義、人権派の人たちによってよく言われてきました。もっともらしくて表立って反論しにくい概念であるが、どうも胡散臭いと直感的に感じてはいいました。『英語を学べばバカになる』の中で薬師院さんはこの正体を見事に明らかにしてくれています。


要するに「地球市民」とはグローバル化した世界の中で、特定の民族や国家から独立した個人的アイデンティティーを持ち自発的な行為をする市民という人たちということになるが、その実態はといえば結局アメリカの多国籍企業が活躍する世界で生きるエリートたちのことなのである。ドミニク・ヴォルトンというフランスの学者が次のようにその正体を喝破しています。


「もっとも闊達にグローバル化されているのはエリートたちの文化である。この種の文化は、世界中のエリートたちが同様の文化的嗜好を持っているがゆえにグローバルなのである。彼らがしばしば、グローバルな文化>さらには<地球市民主義>などを語る傾向があるのは、そのような代物が、小さな輪の中で経験されているからに他ならない。---<グローバルな地球市民>なるものは、同じようなメディアに接し、同じような行動様式や文化習慣を共有し、世界を旅する語句少数のエリートにしか関係のないまやかしものであり、極端に言えば<空港の地球市民主義>でしかないのである。」


こういうことなんですね。まあそういう人たちが自分でそういう生活を楽しむのは勝手にやっていただいて結構なんですが、そんなごく一部の特権階級の生活に過ぎないなんていうものを、グローバル化時代のすべての人間が目指さなければならない「進んだ生き方」だなどという傲慢きわまる主張もっともらしく行い、「頭の弱い」文科省の役人だとか、マスコミだとかがそれを妄信して、一般の人に押し付けているというところに問題があります。またそれに盲従して、小学英語などを一生懸命にやろうとする人が出てくるので、その害悪たるや大変なもんです。エリートが勝手を言ってるに過ぎないくせにさも人民の味方であるかのごとき立場で主張する、といういやらしさがあります。


「これからの日本人は、「地球・世界市民」の一員として暮らしていくために、いままでのような「消極的直線嗜好・行動様式」から脱却し、いわば国民1人1人が、自己のアイデンティティーに基づいた立場から「積極的曲線的思考・行動様式」にのっとった対話的なコミュニケーション能力を身に着けることが必要です。」と称して、小学校で「たとえば休み時間に廊下ですれ違った児童に『ハロー』と英語代刷する。教室以外にも英語を使う場を提供して上げる」ようなことをまじめに行っているのだ。はっきり言って馬鹿である。英語でハローのような日常挨拶をさせることがほんの少しでも「使える」英語力になるかといえば、はっきりと「ゼロ」である。日本がアメリカの植民地だったら、少しはこんなことも役に立つかもしれない。いや逆かもしれませんね、いくらアメリカの植民地だって、こんなこと自然に覚えるだろうから、学校でわざわざ教えるまでもないでしょう。こんなことをやって、どんな効果があるかといえば、唯一つまともな日本語の挨拶ができない子供が増える、すなわち日本の文科破壊が起こるだけ、これしか考えられませんね。もう一度言いますが、英語なんて神様語でも何でもありません。この程度の「呪文」を唱えてホントに役に立つことなんかありません。アメリカ崇拝の奴隷根性を形成するには少しは効果があるでしょうが、まともな仕事をするうえでも、また自己主張をする上でもこんな程度の英語など屁の役にも立ちません。


「英語を学ぶとバカになる」というのは間違いのないことです。こういう類の英語教育をやる限り、それ以外の結果は絶対に期待できません。皆さんそう思いませんか。そう思わない方は、ご意見ください。

英語を学べばバカになる


Amazonに『文科省が英語を壊す』がでています。一番売れていた時に売り上げランク、150くらいになったことがありますが、今や3万前後です。全部で、百万点弱あるうちの3万ですから絶望的に下位というわけではありませんが、発売1年半も経つとこんなところに落ちてきます。時々何位くらいになっているか覗くのですが、たまには千台になっていることもありますが、10万台もあります。そのところこの本を買った人が同じく買っている本の上位5点が出ていますが、この間見ていたら『英語を学べばバカになる』(光文社新書)という本がることを知りました。(因みにこの本は昨年5月発売ですが、現在の順位は5万です。)

早速買って読んで読んでみましたが、面白い本です。基本的に共鳴できる主張ですが、この本は「グローバル思考という妄想」という副題がついているように、アメリカスタンダードをグローバルスタンダードと思い込み、グローバラリゼーションについていくためには英語が不可欠というのは幻想、妄想に過ぎないことをそれこそ世界的な視野で、ヨーロッパの実情、アメリカの現実などを具体的に紹介しながら、きわめて説得的に説明しています。是非読んでいただきたい本ですね。5万にいる本ではありません。

私の本でもこのことは強調しましたが、この本はそれに集中して説明しているので、非常に迫力があり、参考になります。私の本は、それはいわば前提の導入部とし、さて英語は必要だが、その必要性というのは第二公用語などという日本人すべてに求められるものでは全くなく、せいぜい20%かその程度のひとにとってである。問題は実際に必要とされる人が要求されるレベルの英語力を身につけていないところにこそある。第二公用語を提案した「21世紀日本の構想」メンバー及びその同類の人たちこそがその人間に当たるが、にもかかわらずその能力に欠けていることが問題であって、国民一般にその責任を押し付けるのはとんでもない間違いであり、責任回避であることを私は主張しました。その点がこの本では余り論ぜられていないのは少々残念なことです。「武器としての英語」ということは私は非常に重視しているのですが、この本ではやや否定的な扱いもしています。それは、一部の必要な人と日本人一般とが明確に区別されていないせいではないかという感じがします。私は、国民一般に全く役にも立たない「日常会話」的な英語を教育しようという目標を掲げる文科省の考え方を徹底的に批判し、本当に使える英語はどうしたら身につけられるかということを提示しましたので、ニュアンスが変わってきたのだと思います。

神様語ではないし、グローバルリテラシーでもなんでもない英語を国民全員に中途半端に覚えさせようという文科省の方針は、確かに「バカ」をつくることにしかならないことは間違いありません。この本の主張に大賛成です。

米人英語教師が茂木英語教育論に関心を示す


世界出版のホームページ(http//www.sekai-shuppan.com )は、日本語学習と英語学習の教材販売が出発点であり、英語教育論も派生的に載っています。茂木弘道の本のところに、「文科省が英語を壊す」(中公新書ラクレ)という拙著のことを紹介しておりますが、アメリカ人の英語教師からこの本に興味を覚えたので、インタビューしたいというメールが来ました。

わたしは名古屋市立大学の外国人教師のマーク・リバックmark
Rebuckと申します。
茂木先生の『文科省が英語を壊す』中公新書を読んで感動しま
した。
わたしは茂木先生とのインタビューを「全国語学教育学会」JALT
(The Japan Association for Language Teaching)
のThe Language Teacherという月刊誌に載せたら、全国の英語
の先生にとって示唆に富んだ、刺激的な物になると思います。
特に外国人の英語の先生は茂木先生の意見に触れることができ
ないので、ぜひとも英語でインタビューを書きたいと思います
。『ハンバーガー英語』教育に偏っている多くの外国人の英語
の先生にとって考えされせる話になると確信しています。
文科省が英語を壊す』に書いてあることについての茂木先生
の意見、とくに受験英語の重要性、英会話重視と学力低下との
関係、英語教育においての大学の役割などについてもうちょっ
と詳しく聞きたいです。The Language Teacher の編集長と話
して、もし茂木先生とのインタビューが実現したら、その記事
を掲載することの承諾をうけました。
茂木先生はとてもお忙しいと思うのですが、一度、お会いして
お話を直接うかがうことはできないでしょうか。インタビュー
は英語でも日本語でもかまいません。インタビューに承諾して
もらえばまえもって質問を送っておきます。もちろん、原稿を
出す前に茂木先生に送りますので、内容を確認してもらえます
。ぜひご検討してください。お返事を楽しみにしています。

正直嬉しいですね。正論を言っているつもりですが、なかなかベストセラーにならない悲哀をかこっていましたが、やっぱり分かってくれる人がいるんだ!というのが率直な感じです。有頂天になっているわけではありませんが、インタビューを断るはずはなく、3月の上旬においでいただくことになりました。

本当の話、英語は神様語でも何でもありませんし、ちょっとした英会話などはほとんどものの役にはたちません。国際化と日常程度の英会話ができることとの間にはほとんど何も関係はありません。随分英語をやってきたつもりなのに、アメリカ人と会ってみたら全く会話ができない、聞き取れないし、言葉がちっとも出てこない。多くの人がこういう体験をして愕然とする。そして一体自分の習ってきた英語はなんだったんだと思うようになるわけです。しかし、本当は愕然となどする必要はないのです。英会話はスポーツなんです。いくらテニスのやり方を教室で教わっても実際テニスをやってみたらちっとも思うようにできない、といって愕然とする必要がないのと同じで、英会話というスポーツのトレーニングを「すればよい」だけのことです。そうすれば、それまでにやってきた英語が生きてきてものをいうことになるのは言うまでもありません。それを本末転倒して、自分ができないからといって「英会話こそが英語力主体」などと思い込むとろくなことになりません。

使える英語、というものを良く考えていくと、それはちょっとした日常会話などではなく、ビジネスができる英語力だ、ということが分かってくるはずです。ビジネスとは広義に考えて、要するに仕事です。いわゆるビジネスマンが圧倒的に数が多いでしょうが、大学の研究者、官僚なども当然含まれます。海外と関連する仕事をする人がその仕事を不自由なくできる英語力、それが使える英語です。ビジネスというと会話、とすぐ思う人もいるかもしれませんが、屋台の夜店ではそうかもしれませんが、圧倒的多数の主流のビジネスは、文書が第一です。正確に読めなければ仕事になりません。そして書けなくては。特にインターネット時代は、大量の文書をスピーディーに処理しなければなりませんので、読む力、そして書くちからが以前にも増して要求されます。会話「も」必要というべきであって、プライオリティーからいったら、読み、書き、の次になることは少しでも仕事をしてみれば当たり前のことです。なのに、読解中心、文法重視の英語教育がいけないなどといっている最近の英語教育の主流、文科省の考えは、全く現実からかけ離れた空論です。小学校英語などはこの空論の最たるものです。Rebuck先生にお会いするのを楽しみにしているところです。

南京事件研究の最前線


一昨日の東京財団における東中野教授の「南京事件研究の最前線を語る」は、大変な関心を呼んだたようで、通常の虎ノ門道場参加者200名を大きく上回る320名が集まりました。講演内容も大変説得力のあるものだったと思います。多くの知人友人も目からうろこが落ちた、という感想をいっていました。単に虐殺の数が30万なんて多くはない、もっと少なかったなどということではなく、当時国際法違反の殺害を目撃したか、または死体(戦闘による)は多くの人が見ているが、それを虐殺によるものである、といった人は皆無である、という事実から、実態を推察すべきであるということを資料に基づいて示されたわけです。さらに決め手というべきことは、国民党の当時の宣伝部の極秘資料、そして宣伝処長曾虚白の自伝などによって、ティンパーリの「戦争とは何か」という英文書が、宣伝部がティンパーリーに金を与えて作らせたものであることが明らかになったことです。もう一つ大事なことは、南京大学の教授で聖職者のベイツが、陥落後の虐殺の饗宴のストーリーをニューヨークタイムスなどの記者に渡していたにもかかわらず、そうしたことが起こったという記録は当時の国際委員会の資料にも、ボートリンなどの記録にも全くないこと、4万に虐殺のうち1万2千は民間人であったという彼の「戦争とは何か」への匿名の寄稿は、全く根拠がないこと、そして極めつきは聖職者面した彼が国民政府の顧問であったことです。その彼が、東京裁判できわめて重要な証言者であったということです。

会場で話をききながら、虐殺狂信者は果たしてここへ来ているのだろうか、もしいたとしたらどう思っているのだろうかということです。日本軍を悪鬼のごとき存在と仮定しないととても成り立たないようなことを荒唐無稽な虐殺話を本気で考えている彼らですが、東中野教授が、冒頭で紹介したカティンの森の虐殺事件の事を見ていけば、そうそう簡単に大量虐殺などできるものではないことが良くわかるはずです。カティンの森では、ポーランド将校を中心とする兵士1万数千人が虐殺されたことは今でははっきりと確認されています。何しろポーランド将兵殺害の秘密命令をスターリンが出したことが文書で確認されているのですから。ナチの仕業と言い張っていたウソのことはともかく、この1万数千の虐殺を行うのはそうそう簡単なことではなかったということです。まず徹底的に重要なのは、トップからの命令です。それなしで軍という官僚機構は大掛かりな虐殺など行えるはずもありません。トップの命令があったればこそ、まずGRUが管理している厳重に立ち入りをコントロールできる「場所」を虐殺の実行場所として確保できるわけです。次にちょっとした穴掘りでは、1万数千の死体を見えなく埋葬などできません。そこで死体埋葬実行部隊が動員されなければなりません。スターリン命令に基づいているので、囚人部隊をその実行作業隊員として動員することができ、そうしました。深い穴を掘り、死体を12層に重ねていたといいます。そして完全に隠蔽したわけです。その作業は大変なものであったからこそ特別作業部隊が動員されたわけです。残念ながら、立ち立ち入り禁止地区はドイツ軍に占領され、そしてついに死体が見つかったというのがカティンの森の虐殺です。

南京を考えてみるとこのすべてがかけています。1)虐殺命令など全く出ていなかった。2)埋葬部隊の動員など全くなかった。3)埋葬は、紅卍会が行ったが、何も秘密ではなく、又立ち入り禁止地区もなかった。4)立ち入り禁止地区などなかったので、どこにも新聞記者は取材にいけた。5)埋葬されたのは敗残中国兵の遺棄死体であることは当時誰も疑わなかった。その証拠には、そうした死体の存在は誰もが知っていたが、誰も(たった一人も)それが虐殺死体であると「当時」言ったという記録はない。

これ以上あげるのは馬鹿らしくなりますが、要するに「マオ」でユアン・チアンが、毛沢東を非難して南京虐殺のことを触れていないのはけしからんとおろかなことを言っていますが、なかったのだから毛沢東も書かなかった、それだけのことなのであります。結論はきわめて明快です。(それでもわからない、狂信的日本悪者教徒が存在するようですが、死ななきゃわからないとしたらお気の毒としか言いようがありません。)

確かにこうしたおろかな狂信者と議論している場合ではない、というご忠告はその通りと思います。しかし、こんな馬鹿なことばかりをしているわけではありませんで、東京財団と協力して、THE NANKING MASSACRE: Fact Versus Fiction の海外有力者への送付、インターネットによる発信、そして様々な海外発信活動も粉いつつあります。WILL3月号の「南京虐殺はブラック・プロパガンダ」を是非お読みください。これから海外に向けでどんどんやっていきます。是非ご協力ください。