ゆとり教育


11日(土)に、東京都教育連盟結成大会が開催されたということです。。紀元節の祝典があったので、聞いてはいたが出席できなかった。是非日教組をしのぐ組織として発展していただきたいものです。友人から、状況を知らせてきてくれました。西沢潤一、米長邦雄両氏の記念講演で、「国語教育こそすべての基礎。昔は週17時間、大正時代でも週12時間教えられていたのに、今はそれ以下である」といっていたそうです。その通り、それ以下なのですが、そんな言い方はことの本質を全く外れた極楽トンボ的な言い方です。これでは、いまはそれ以下の週10時間くらい国語が教えられているかのような言い方ではありませんか。普通読めばそう理解するでしょう。実際はどうかというと、国語に時間が一番多い2年生で、週8時間です。一番少ない6年生になると、週5時間!なのです。6年間平均すると6.5時間。で昔の3分の1強、大正時代の2分の1強というのが実態なのです。

この現実をよくよく認識してもらわないと困ります。英語、パソコンなどに取られているといいますが、それは枝葉末節です。「知の爆発」(東大の小宮総長は、現代をそういう言葉で表現し、その一つの事例として光合成で酸素が形成され、燃焼によって炭酸ガスと水になっていく循環の説明が、大学の段階でも30年前にはきわめて単純なものであったのが、現在ではその数十倍の説明になっている話をあげています)の時代だというのに、何と「ゆとり教育」なる寝言によって、小学校、中学校の授業時間が、大幅に削られているのです。それに加えて、何も小学校で全員に教えなくても良いようなパソコンだとか英語だとか、さらには総合の時間というわけのわからない時間を設けたりして、肝心要の国語、算数を大幅に減らしているのが、「ゆとり教育」なのです。理念はいいが、などというおろかなことを言う人がいますが、理念が根本的に間違っていることを認識しないととんでもない結果が生じてしまいます。

米長さんはいいことも言うのですが、かつて話をする機会がありましたが、「ゆとり教育」を擁護して、要するに「座学」とそれ以外のものとのバランスの問題なのだ、といった全く頓珍漢なことをいっていました。「知の爆発」の時代に基礎知識を学ぶ時間を大幅に減らして、いったいどうなるというのでしょうか。何もただ本を読んで勉強すればいいとかそんな問題ではなく、基礎的に学ばなければならないことが増えたら、考えるべきことは座学がどうとか言う寝言ではなく、必要な基礎知識を学ぶための「時間を増やす」ことこそ考えるべきことです。その上で、座学以外のこともおおいにやればいい。好きな子には将棋もやらせればいい、とこういう風に考えるのがまともな考えというものでしょう。世の風潮に惑わされて、勉強だけが能ではないという、それ自体は当たり前だが、じつはとでもない破壊的な効果をもたらす言説を撒き散らしていたのでは、「教育」など語る資格はないというべきでしょう。